六所神社

 

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相模国総社六所神社 

 

相模国総社は、神奈川県中郡大磯町国府本郷の六所神社です。

大化改新以来、国司は任国に着くと先づ国中の主たる神々を巡拝し国幣を頒つ制だった。しかし、巡拝は大変な日数と費用と人員を要するため、主 たる神々の御分霊をあわせ祀る社、すなわち総社を設ける習いとなった。

相模国の場合、ここ「柳田大明神」に、

一之宮=寒川神社、

二之宮=川勾神社、

三之 宮=比々多神社、

四之宮=前鳥神社、

平塚八幡宮の分霊

を合わせ祀り、「相模国総社」の成立を見た。また、六ヶ所の神社を合わせ祀るところから、「国府六所 宮」とも称されるようになった。

http://www.rokusho.jp/rokushameguri/flyer_ura.pdf

 

国道1号線沿いの鳥居を入ると、参道は、JR東海道線のガードをくぐります。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/54/Rokusho_jinja_Gate.jpg/640px-Rokusho_jinja_Gate.jpg

wikiより

ここから境内

ふとーい
15花弁の菊
 
 
 

 

2013年1月5日

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おまけ

●六所神社『御由来』より

人皇十代崇神天皇の頃、出雲地方よりこの土地に一つの氏族が移住して開墾した。そして、この地の地名を柳田郷(やなぎたごう)と名付け、氏族 の祖神である櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)、須佐之男命(すさのおのみこと)、大己貴尊(おおなむちのみこと、別名大国主命)を守護神として石上台 (別名伊勢神台、当鎮座地北西一キロメートルの台地)に祀り、社殿を結構し、「柳田大明神」と称して地域の親睦発展はもとより、子々孫々に到るまでの弥栄 を祈願した。この柳田大明神が六所神社の旧名であり、創建は崇神天皇甲申の歳といわれる。

柳田大明神の加護のもとに氏族の人々は心を一つに和して開墾開拓に辛苦努力を重ね、東国開発の基礎を固め、相模国の形成に多大な貢献をなした。

大化の改新後、国の行政も次第に整い国司の制度が始められてゆく中に、元正天皇の養老二年(718年)閏四月八日、石上台より現在の鎮座地に 奉遷、暦勅を以って相模国八郡神祇の中心をなすべき旨、宣下された。桓武天皇の天応元年(781年)五月五日、早良親王(さがらしんのう)夷賊征討に際 し、退壌祈願があった。平安時代に相模の国府が柳田郷に遷され、地名も国府と称せられるようになった。

鎌倉時代になると源頼朝の崇敬誠に篤く、『吾妻鏡』治承四年(1180年)十月十六日の条によると、平家の大軍が平維盛を大将として富士川に 攻め寄った時、「国府六所宮」にて戦勝祈願を行う。同年十月二十三日、源頼朝は北条時政等二十五名の功賞を行う。その規に依り文治二年(1186年)、本 殿の改造が行われた。建久三年(1192年)八月九日、源頼朝の実子実朝の安産誕生祈願の為「総社柳田」に神馬奉納と記す。建長四年(1252年)四月十 四日、宗尊親王将軍の事始に幣帛神馬を奉納。

戦国時代には、北条早雲の崇敬も大変篤く、子息氏綱が永正年間(1501~1520年)に六所宮の社殿造営、四代目左京大夫氏政が本殿の修復 を行い、これが現在の本殿である。天文十三年(1544年)十二月二十三日付の北条氏寄付状があり、相州六所領六十五貫七十六文と記す。

徳川家康も相模国六所宮に対する崇敬篤く、天正十九年(1591年)、武運長久の祈願として六所領五十石の寄進状朱印があり、徳川家光からも 慶安元年(1648年)、国家安全祈願として五十石の寄進状朱印があった。以後歴代の将軍の特別な祈願と六所領の寄進があり、明治に至る。

●六所神社『相模国府祭』より

国府祭(こうのまち)は、相模国の国府庁が置かれた現大磯町国府本郷の神揃山(かみそろいやま)の祭りと、小字高天原(たかまのはら)、別名逢親場(おおやば)あるいは大矢場(おおやば)で行う国司祭の二つを言う。

相模国の一之宮=寒川神社、二之宮=川勾神社、三之宮=比々多神社、四之宮=前鳥神社、平塚八幡宮、総社=六所神社の有力六社が参加し、関東の最大の祭典として、また全国的にもめづらしい貴重な祭りとして知られ、神奈川県の無形民俗文化財に指定されている。

国府祭の起源は、大化改新(645年)までさかのぼることができる。国の中心に国府を置き、中央政府より国司を任命して国の行政にあたらせた。

大化改新より以前、今の大磯より東の方に相武(さがむ)という国があり、西の方には磯長(しなが)という国があった。この二つの国が合併して相模国が成立したとされる。

中央政府より任命された国司は、任国に着くと、先ず最初に神拝または巡拝といってその国の有力大社を参拝して回る制度があった。この回る順番によって後に、一之宮、二之宮と称されるようになる。

また、班幣といって毎年二月四日に祈年祭等の幣帛として国幣を各社に班つ習慣があり、国府の近くに斎場を設けて各社の神主、祝等を招き、班幣の神事と荘厳な祭祀が行われ、それと共に各地の豪族も招いて盛大な宴会があった。

しかし、時代が経つにつれて、国司の巡拝は大変な日数と費用と人員を要するため、巡拝する神社の分霊を国府近くの神社に合せ祀る慣いが起り、これが総社の起源となった。そこで、国司は総社に分霊を納めてもらうために、各社に神輿をもって国府に集まるように依頼した。

国府祭は、国司班幣神事と、総社へ分霊を納める祭祀とが一体となって、年に一度の盛大な行事となっていったのである。神揃山は班幣の斎場であり、高天原は総社に分霊を納める祭場である。