金王八幡宮

 

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金王(コンノウ)八幡宮

渋谷駅から5分くらい。渋谷警察署の奥のほう。なんと。日本生産性本部のそばでした。15年前にはよく来ていた場所だったんですが、神社があることに気がつきませんでした。

渋谷氏の祖である河崎基家が寛治6年(1092年)に創建したと伝えられる古社。この地の豪族の渋谷氏の鎮守社であったといわれ,渋谷という地名もこれにちなんでいるという説がある。
  江戸時代初期のころの造営と伝えられる権現造りの社殿は極彩色の華やかな絵様・彫刻で覆われており、当時の建築様式をとどめている貴重な建物で、江戸中期の建造とされる寺門とともに渋谷区の有形文化財に指定されている。

説明の文章は公式HPから転載しています。

当八幡宮は、第73代堀河天皇の御代、寛治6年正月15日(1092)鎮座いたしました。

桓武天皇の曽孫である高望王の後裔で秩父別当武基は源頼信による平忠常の乱平定において功を立て、軍用八旒の旗を賜り、その内の日月二旒を秩父の妙見山(武甲山では?)に納め八幡宮と崇め奉りました。

武基の子武綱は、嫡子重家と共に後三年の役の源義家の 軍300騎余を従え1番で参向し、仙北金沢の柵攻略しました。その大功により名を河崎土佐守基家と賜り武蔵谷盛庄を賜りました。義家は、この勝利は基家の 信奉する八幡神の加護なりと、基家が拝持する妙見山の月旗を乞い求め、この地に八幡宮を勧請しました。

重家の代となり禁裏の賊を退治したことにより堀河天皇より渋谷の姓を賜り、当八幡宮を中心に館を構え居城とししました。渋谷氏は代々当八幡宮を氏族の鎮守と崇めました。これが渋谷の発祥ともいわれ、現在も境内に渋谷城砦の石が保存されています。

渋谷氏が武蔵谷盛庄七郷(渋谷、代々木、赤坂、飯倉、麻布、一ツ木、今井など)を領していたので、当八幡宮は八幡通り(旧鎌倉街道)、青山通り 宮益坂 道玄坂(旧大山街道)を中心とする、渋谷、青山の總鎮守として崇められています。

当八幡宮は、古くは単に八幡宮又は渋谷八幡宮と称しておりましたが、渋谷金王丸の名声により、金王八幡宮と称されるようになりました。

 

御祭神 渋谷金王丸常光

(しぶやこんのうまるつねみつ)

祭礼日 3月最終土曜日  金王桜まつり

由  縁 金王丸は、渋谷重家夫妻が当八幡宮に

授児祈願を続け、八幡神の霊夢(啓示)により、永治元年(1141)8月15日誕生しました。

金王丸17歳の時、源義朝に従い保元の乱に出陣。平治の乱ののち出家し、土佐坊昌俊と称し義朝の御霊を弔いました。

  また、頼朝とも親交が深く鎌倉幕府開幕にも尽力。義経追討の命を受け、文治元年(1185)10月23日夜、心ならずも義経の館に討ち入り勇ましい最期を遂げました。

頼朝は、金王丸の忠節を偲び、鎌倉の館よりこの地に桜樹を移植し「金王桜」と名付けました。

この御影堂には、保元の乱出陣の折、自分の姿を彫刻し母に残した木像が納められ、更に金王丸が所持した「毒蛇長太刀」も保存されております。

 

御祭神 櫛眞知命(くしまちのみこと)

大己貴命(おおなむちのみこと)

少名毘古那命(すくなひこなのみこと)

日本武尊(やまとたけるのみこと)

祭礼日 11月一ノ酉

由 緒  御嶽神社は、「開運」「商売繁昌」の神とし

て、特に客商売を営む人々の信仰を広くあつめており、本社は武州御嶽神社です。

大鳥大神と称える日本武尊は、古来より武道守護の神として武士の信仰をあつめておりました。ここに祀られたのも、この地が武門の誉れ高き渋谷氏の居城であったからと考えられます。

また、社前の狛犬一対と西参道の鳥居はかつて実践女子学園の校内にあった

「香雪神社」のものを移設したものです。

 

御祭神 宇賀御魂命(うがのみたまのみこと)

祭礼日 2月初午

創  建 元禄16年8月(西暦1703)

由  縁 宇賀御魂命は、農耕をはじめ諸産業に御

神徳があり、屋敷神としても多く祀られております。御本社は京都伏見稲荷大社で、伊勢神宮内宮に祀られる天照皇大神のお食事を司る神として外宮に祀られた豊受大神と同神であるといわれております。稲荷神社は全国に約三万社余あるといわれ最も身近な神社の一つです。

玉造稲荷神社が創建された江戸中期、さらに明治の頃まではこの渋谷も農家が多く稲作がおこなわれ、茶畑も広がっておりました。また、大山道(246)宮益坂には町屋が並び商業が盛んでした。これらさまざまな人々の崇敬を集め、その御神光は現在に至るまで変わることなく輝き渡っております。

 

金王桜は、長州緋桜という種類で、雄しべが花弁化したものも交じり、一枝に一重と八重が入り混じって咲く珍しい桜です。

 

2011年6月18日参拝

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