湊川神社
湊川神社はなぞだらけ。歴史マニアには、ごちそうです。
楠正成公という実在の人物が祭神です。朝廷のゴタゴタで、楠公は南朝の後醍醐天皇を担ぎましたが結局敗れ、北朝の天皇の時代になりました。結果、楠公は賊軍として300年たちました。
北朝の天皇である孝明天皇(皇女和宮のお兄さん)が36歳で突然死して息子の明治天皇が16歳で即位しました。明治維新後、明治天皇は南朝系神社を15カ所くらい創設しました。
不思議なのは、明治天皇が、なぜ、南朝天皇方の賊軍大将楠正成公の神社をたてて、正成や息子、弟、奥さんまで一族16人他を神様にしたのか?です。
皇居前広場にも、楠正成の銅像があるのもなぜでしょう。北朝天皇にとっては賊軍なのにね。
神社HPから借用のmap
2005年頃、仕事先のそばにありましたので、ご挨拶しました。表門と参道です。
本殿
参拝のあとは・・。阪神淡路大震災でガード下のお店がこわれ、移転していたが、
見つけることができよかった。店が綺麗になった分、値段もちょっと変化が・・。
ネットで見つけた記事(2011年8月)です。どなたのものか不明ですが・・
・・・ところで、湊川神社は、まったく趣を異にする。
古代の神々ではなく、確かに実在の人物である楠正成公をまつる。
いわば御霊神社の役割をしている。
七生報国と誓い合って、戦に敗れた無念の武将だ。
南北朝時代の英雄だった正成公は、江戸時代水戸光圀公に、たたえられた。
境内わきに「嗚呼忠臣楠氏の墓」と掘られた墓石は光圀公の筆によると言う。
しかし、単に道行く人にあがめられた墓碑だけだったものが、大きな神社になったのは明治時代なのだそうだ。
菊水天神を合祀している湊川神社は、天皇を中止に国づくりをしようとした人々の聖地になった。
没後五〇〇年もして脚光を浴びたわけだ。
でも、なぜ?
湊川神社はなぞだらけ。
大楠公は、南朝の後醍醐天皇を担いだ。
ところが結局は、北朝の天皇の時代になってしまった・・・
徳川三〇〇年を経て、ようやく天皇の時代が戻って来た時、
大楠公は、たいへんな崇敬を集めた。
でも、不思議なのは、北朝の天皇である明治天皇が、なぜ、そこまで南朝の天皇をあがめた楠正成公に心を寄せられたのか?南朝方の人物を祀るという行いは、前近代に全く行われなかった訳ではありませんでした。ただ、敵手である足利尊氏により慰霊・怨霊慰撫の目的で仏教寺院建
立・菩提供養目的での田地寄進といった形で行われたものでした。それと比較して、近代の「南朝忠臣」神格化は性格が異なっているようです。慰霊と言うより
顕彰という性格が強く、近代国家における天皇・国家への献身的忠誠を鼓吹する上で宣伝効果が期待されたこと、明治維新と建武の新政のイメージを重ね合わせ
顕彰する事で明治政権の正当性を謳い上げることが目的だったと言えます。これらの神社は、祭神達の生きた南北朝時代よりも寧ろ建設された近代の問題として
見るべき神社と言えるようです。