大塚 天祖神社

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大塚 天祖神社

 

所用があって大塚に。駅前広場に天祖神社の石柱を見つけました。商店街の入り口に鳥居も見えます。

 

都電荒川線の向こうにそれらしき森がありました。行くしかありませんね。商店街を進みますと・・

天祖神社を発見。祭神は天照皇大御神です。

子供に授乳している子育狛犬(右) 子育てしているのは、ココにも。

手水獅子。狛犬さんですね。

天祖神社は、昔の巣鴨村(今の豊島区のほぼ半分)の鎮守さまで、鎌倉時代末の元亨年間 (1321~4)に、領主の豊島氏が伊勢の皇大神宮の神さまをお迎えしてお祀りしたのが最初だと言われております。明治6年に天祖神社と名前が変わるまで は、神明社・神明神宮と呼ばれていて、江戸時代には十羅刹女堂も境内に祀られていました。

ここにも豊島一族が出てきます。豊島区や練馬区、板橋区あたりは縄張りでしたね。

天祖神社は今からおよそ六百数十年前、即ち元亨年間、当時武蔵国豊島郡の領主であり、豊島氏中興の祖といわれた景村のとき、巣鴨鎮護の神として祀られた、と伝えられている。
江戸時代、鬼子母神の信仰が旺んになり一時十羅刹女神を併せ祀ったこともあるが、明治になって分離された。当神社は神明宮ともまた神明社ともいわれていたが、明治5年、ご祭神の伊勢の皇大神宮が、天津御祖の大神であるところから、天祖神社と改称され今日に至っている。
旧暦の神嘗祭(伊勢の三大祭の一つ)にあたり祭儀が古くから巌修され、毎月七日、十七日、二十七日は通称縁日として昔から門前市をなす賑わいを呈している。
天明年間改築された旧社殿は昭和のご大典記念事業として昭和8年に造営され壮麗を極めたものである。その後第二次大戦も終りに近い昭和20年4月の大空襲 によってその一切が烏有に帰した。その際境内にあった樹齢五百年を数えるご神木夫婦銀杏も戦火を被り、近年ようやく芽吹いて繁茂するようになったものであ る。
昭和25年復興奉賛会が結成され同年ひとまず拝殿が造営された。その後区画整理がはじまり造営は一時中断され、境内も三分の一に縮小されることとなった。 三十八年にいたって区画整理が完了をみたので氏子・崇敬者の協賛を得て造営工事に着手することとなり、昭和39年8月、改めて復興奉賛会を結成して翌40 年8月起工し、ご本殿の造営、幣拝殿の修復、社務所並びに参集所の建設及び一連の附属設備工事を完了し、昭和43年9月、明治維新百年の意義ある年にあた り、造営竣工奉祝臨時大祭を執り行いここにようやく境内輪億の美をみるに至ったものである。(豊島区教育委員会掲示より)

樹齢六百年、高さ二十五メートルの一対の大イチョウ。 「縁結びいちょう」とも呼ばれます。左が雄木・右が雌木、周囲はともに6m、樹齢約六百年。都内で雌雄一対の大公孫樹は当神社のみです。
 昭和20年4月13日、B29の焼夷弾攻撃により、この付近一帯は紅蓮の炎に包まれ、その際に被災しましたが、今日は又繁茂するようになりました。

鏡に映っているのは・・

境内社も沢山です。  稲荷神社、厳島神社、菅原神社、三峯神社、榛名神社、熊野神社

2011年9月4日参拝

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